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駒澤大学の公認団体「幕末維新史研究会」の活動ブログです。

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11月6日の活動報告

皆さん、こんにちは。
後期より活動に参加した、留学生のりょうひんです。
初めてブログで文章を書いたので、もし、変な日本語を使ったら、ご了承ください。
今回の活動の時に配られた崩し字の史料は、前回と前々回の史料より、かなり難しく感じました。仮名文字は数カ所に出て来て、作者も特別な書き癖がありました。その原因で、皆さんが解読する時に、非常に苦労したでしょう。

これにて活動報告を終了いたします。
読んでくださり、ありがとうございました。
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研究報告「江戸無血開城~山岡鉄舟の動向を中心に~」

こんにちは。1年の久保田です。
10月29日に行った研究発表に関して報告させていただきます。

今回の報告では、江戸無血開城の動向を、幕臣である山岡鉄舟を中心に考察をしました。

江戸無血開城といえば、勝海舟と西郷隆盛の会談を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。しかし、この会談の直前、駿府において、山岡鉄舟と西郷隆盛との間で会談が行われており、この山岡・西郷会談の結果を踏まえて、後の勝・西郷会談は進められていきました。

江戸に向けて新政府軍が迫る中、徳川慶喜は側近である高橋泥舟を新政府軍のもとへ派遣し恭順の意を伝えようとしますが、自身の身の危険を危惧し、高橋に代行者がいないかを尋ねました。そこで高橋の義弟である山岡鉄舟が挙げられ、慶喜はこれを承認しました。駿府行きを命ぜられた山岡は、勝のもとへ相談に行き、薩摩藩士の益満休之助と共に駿府へ向かいました。
駿府に到着した山岡は、西郷との面会を果たします。この山岡・西郷会談で初めて徳川家処分案が新政府側から提出されました。山岡はここで慶喜の備前藩御預けという点を保留し、江戸に戻りました。
西郷との会談の結果を山岡は勝に報告し、勝は品川まで迫っている西郷に書を送り、面会を要求しました。
これを受けて、勝と西郷の会談が江戸の薩摩藩邸で2日間に渡り行われました。この会談で勝は、山岡が持ち帰った新政府軍の降伏条件を改定した嘆願書を提出しました。西郷はこの件を総督府に持ち帰り、そこで結論が出なければ京都まで戻るとし、江戸総攻撃は中止としました。
その後、新政府側の回答は、勅使によって江戸にもたらされ、慶喜は水戸藩に御預けの処分に決定しました。

以上のことから、江戸無血開城において、駿府での山岡・西郷会談が果たした役割は大きいのではないかと考えました。

今回は初めての研究発表ということで、レジュメのミスなどが目立ち、多くの点を諸先輩方から御指導頂きました。ありがとうございました。この研究発表で学んだことを活かし、今後の活動に繋げていきたいと考えています。

今年も残すところ約2か月となり、段々と寒さも増して参りました。風邪などに気を付け、残りの活動に精進していきたいと思います。

以上で報告を終わります。
ご清覧いただきありがとうございました。

研究報告「幕末期における剣術の発展と衰退」

こんばんは。1年の坂脇です。
10月29日に行った研究発表について報告させていただきます。

今回は「幕末期における剣術の発展と衰退」という題で、ペリー来航後からの幕府の政策と明治維新後の新政府の政策を中心に剣術の栄枯盛衰について考察しました。

今回の報告では、徳川期からの剣術の実態を明らかにした後に、他流試合禁止の解除や講武所の竣工などの幕府の武芸稽古奨励の政策、明治維新後の廃刀令が発布された後に、警察署や「撃剣興行」という見世物として剣術がどのように扱われたかを考察しました。

今回の報告は先行研究を見つけることができなかったことや史料を上手に活用できず、実証力が弱くなってしまいました。また、初めてのレジュメ作りに戸惑い、概説みたいになってしまったことが反省でした。
今後は撃剣興行など視野を狭めて、深く考察していきたいです。

今回はたくさんの先輩方に聞いていただき、様々なご指摘をして頂きました。
心より御礼申し上げます。
また、今回の指摘や反省を翔龍作成に向けて活かしていきたいと思います。

以上で報告を終わります。
ありがとうございました。

研究報告「明治維新期におけるフランス革命観」

こんばんは。1年の中根です。
10月23日に行った研究発表について報告させていただきます。

私は今回初めての発表ということで、少し緊張していましたが、最後まで聞いてくださり、誠にありがとうございました。
今回は「明治維新期におけるフランス革命観」という題で、近代国家の成立に伴う文明開化期に、フランス革命がどう人々の間に伝わり、影響を与えたかを、様々な史料をもとに考察しました。
近代化を急ぎ、西欧列強に負けない国づくりに邁進した明治時代に海外からフランス革命が伝わり、多くの知識人達に知られ影響を与えました。
今回の報告では、明治時代の著名な3人の知識人達の著書から引用した史料を用いて、もっとも影響を与えたのが啓蒙思想であり、フランス革命について悲観的な部分も感じていたことを明らかにし、それが文明開化期の文学発達の顕著な現れであることを示し、後々に影響を及ぼすことを考察しました。
今回は初めてということで、まだまだ改善すべきところがほとんどで、殆ど事実内容を列挙したような発表になってしまいました。論文を用いて、それまでの先行研究を調べた上で、史料をもとに考察していくことが大事だということを、先輩のアドバイスから学ばせていただきました。先輩方からの多くのアドバイスを活かしてさらに良い内容のものを作っていきたいです。


以上で報告を終わります。
ありがとうございました。

研究報告「島田髷と江戸後期の結髪文化」

こんばんは!1年の山本です。
10月23日に行いました、研究発表のご報告をさせていただきます。


今回、私は 「島田髷と江戸後期の結髪文化」 をテーマに江戸時代後期の女性たちの結髪…
いわゆる日本髪が女性にとってどのような立ち位置にあったのか、
またそのスタイルの流行はどういったものなのかを考察いたしました。


町人文化の栄えた江戸時代において、歌舞伎役者や花街の女性から流行し、余裕の生まれた町人階級の女性たちが工夫した髪型は多種多様なものでありました。

中でも江戸後期に流行した島田髷は、元は東海道島田宿のの遊女が結い始めたとされているものですが、
結い方によって職業や階級、年齢や趣味などの条件によるニーズに応えられるものであったと考えられます。

また、江戸後期においては豪華絢爛なものよりも「いなせ」と呼ばれる質素なスタイル、髷も高く結い上げたものよりも平らなものが好まれていました。現代でいう「こなれ感」のようなものですね。

今回の報告では、島田髷およびつぶし島田、という髪型を中心に考察いたしました。
そして、江戸期の結髪の様式は女性にとっての「お洒落」という部分だけではなく女性自身の立場を表現しやすいものであるという結論に至りました!
今後は論文にも目を通しながら、西洋文化の影響を受けた近代の女性の結髪や服飾についても勉強したいと考えております。


先輩方からは幕維スタイルのレジュメの作成についてや、史料の使い方など、きめ細やかなご指導を賜りまして、ありがとうございました。
また初回の報告は同期に励まされながらなんとか終えることができました…。同期にも感謝しています。


以上で報告を終わります。
今後も精いっぱい邁進して参ります!ありがとうございました。