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駒澤大学の公認団体「幕末維新史研究会」の活動ブログです。

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研究報告「島津斉彬と島津久光の相互認識についてー安政6(1859)以前の久光を中心に」

こんばんは。
3年の永田です。

先日の
「島津斉彬と島津久光の相互認識ー安政6(1859)年以前の久光を中心にー」についての研究報告を行ないます。

これまで私は、
島津斉彬の集成館事業や嘉永朋党事件についての研究を行なってきました。
それを踏まえた上で、今回は「島津久光」に焦点を当てることとしました。

はじめに、久光の先行研究についてまとめました。主に、3名の研究者の方をまとめさせていただきました。
そこからわかったことが、
久光研究はまだまだこれからであるという事です。
特に、安政6(1859)年以前の久光については、まだまだ研究の余地があるということもわかりました。
もっとも斉彬についても、まだまだ研究の余地があるのかと考えております。

次に、
薩摩藩の支配地域であった琉球への外国船来航を踏まえ、斉彬と久光の動向について考察しました。特に、琉球への外国船来航によって、久光はどのように藩政に関与していったのか、という点に注目しました。

最後に、
本報告のタイトルでもある、斉彬と久光の相互認識について、考察を行ないました。また双方の事だけでなく、斉彬・久光が両派閥のことをどのように捉えていたのか、という点にも注目しました。

本章のはじめに、
斉彬が「天保改革派」(島津斉興、彼の側室・お由羅、薩摩藩家老・調所広郷など、久光を擁立した人々を、本報告ではそのように表記)をどのように捉えていたのかについて考察しました。主に、嘉永2(1849)年12月までの、斉彬と家臣である山口定救のやり取りから考察を行ないました。
もっとも、斉彬の久光に対する評価についても、この山口とのやり取りに注目しました。
また、安政5(1858)年4月12日の、斉彬から久光への書簡にも焦点を当て、考察を行ないました。
次に、
久光が「嘉永・安政改革派」(斉彬、近藤隆左衛門や高崎温恭など彼を擁立した人々を、本報告ではそのように表記)をどのように捉えていたのかについて考察を行ないました。もっとも、久光の嘉永朋党事件に対する認識について触れることとなりました。
その一方で、
史料の読み込みが甘く、久光の斉彬への認識は、先行研究をまとめることが中心となってしまいました。深い考察が出来ず、悔しかったです…。

報告の構成として、
はじめとおわりに が先行研究をまとめてしまったために、先行研究をまとめただけの報告の印象を与えてしまった点が反省です。
また時間との兼ね合いもあり、『鹿児島県史料 玉里島津家史料』を充分に読み込めなかった点も反省です。もっとも、報告後も『玉里島津家史料』と格闘中でございます…!
一方で、
多くの箇所は史料を提示して考察を行えたので、良い点もあったのかなとも思っております。
レジュメを作成する過程も、非常に充実しておりました。



結果、個人的には楽しい報告でした…。

今宵はここらで、よかろかい…。

長文、失礼しました〜!
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研究報告「幕末の軍楽隊の意義~幕府と軍事顧問団を事例に~」

こんにちは。3年榎本です。
今回は12月4日に行われた研究報告に関してブログを綴りたいと思います。

今回、私は「幕末の軍楽隊の意義~幕府とフランス軍事顧問団を事例に~」のタイトルで
幕末期における軍楽隊の意義について考察しました。

軍楽隊とは本来、士気の鼓舞や隊列を整えるものとして19世紀半ばに西洋からもたらされました。
オランダ式、イギリス式、フランス式の軍楽が輸入された中で、フランス式は後の兵式統一で採用され、継承されていきます。

その理由として考えられるのが、戦法・武装の変化、武器の発展、またフランス式がラッパのみでの隊列指揮であった点です。

今回の報告では、イギリス式とオランダ式との比較ができず、フランス式軍楽の意義が分かりづらいものとなってしまったので、機関誌ではそれらを取り入れたいと考えています。
卒論では軍楽というと、軍事史または文化史どちらの側面からも捉えられます。まずはどちらに重きを置くのかを考えて、研究を深めていければと思います。

以上で報告を終わります。
長文失礼致しました。

研究報告「幕末期民衆の情報空間と活用」

こんにちは!12/4に研究報告を行いました、3年の辻です。
今回は「幕末期民衆の情報空間と活用」というタイトルで報告しました。昨年、長州藩を調べていた際に、情報を利用していた事に興味を持ち、今回は民衆を中心として幕末期の情報を考察していくことにしました。また、地域差を考察するために、江戸・京都を例にとりました。

幕末期の情報空間として、幕府・諸藩(例として肥後藩)・民衆(例として紀州在村蘭方医の羽山大学)のそれぞれの立場を利用した情報収集と情報空間を明らかにしました。
江戸・京都の情報では、江戸を「藤岡屋日記」、京都を「人のうわさ」という二つの史料から、情報収集と展開、活用を考察していきました。

今回の報告では、テーマとして挙げた活用についての調査が不足してしまいました。また、江戸・京都を比較する上で、二つの史料を中心としたため、地域的特色を決定づけるには、まだ他史料の考察が必要だと思います。卒論に向けて、まだ多くの課題があり、検討が必要だと感じました。

今回の報告では、時間の関係上質疑応答の時間で全員への回答が出来ませんでした。つまり、それほど多くの質問が出たということで、バクイの活発さを実感致しました。バクイが終わった後にも質問に来てくれてありがとうございました!私は、しっかりした後輩達だなと感動しました。

これからも精進して行きます。ここまでお読み頂き、ありがとうございました。以上で研究報告を終わらせて頂きます。

研究報告「朝幕関係再編と朝廷権威の推移」

こんばんは、3年の大澤です。
本日は、12/3に行いました、研究発表についての報告をさせて頂きます。

私は今回、「朝幕関係再編と朝廷権威の推移」をタイトルに据え、江戸時代後期から幕末期にかけての朝廷の権威の推移と、朝幕関係再編までの流れを調査・考察しました。

天明末年から寛政初年にかけての様々な神事の復古などをきっかけに、天皇・朝廷による、自らの地位を高めようとする運動が盛んになりました。

それらの動きに警戒した松平定信は、「御心得之箇条」にて大政委任論の表明を行い、朝廷の復古の動きに対して警戒しつつ、崇敬の対象として幕府権力に朝廷権威を協調させます。

しかし、文化4(1807)年の幕府から朝廷への体外情勢報告により、朝廷が政治的権威を浮上させる契機が与えられることとなり、後の安政5(1858)年の日米修好通商条約調印の勅許をめぐる政争により、朝幕関係は分裂し、両者の国政上における立場が逆転するに至ります。

文久期以降、幕府は和宮降嫁を代表とする公武合体政策を行い、幕府の威信を回復させようとします。
また、文久2(1862)年に幕府は将軍を上洛させ、朝幕間で体制委任論を再確認し、制度化することを要求しました。

今回の報告では、一部調査が不十分な点があったため、そこを中心に今後調べていきたいと思います。また、卒論のテーマ設定に向けて、今回扱えなかった論文などを探し、読み込んで行くことに力を入れたいです。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

研究報告「井伊直弼をめぐる一考察」

こんにちは、二年生のリョウです。
12月3日に行った研究発表に関する報告をさせていただきます。
今回、私は井伊直弼に対する一般的な認識の反論を発表しました、研究によって3つの反論を取りあげました。1、井伊直弼はあくまで勅許を得るまで待つべきを主張した。2、井伊直弼は一般的に独裁者と思われるが、これは大いに再考の余地があると認識しました。3、実は日米修好通商条約を調印しに行ったのは井伊直弼、本人ではありません。
また、安政の大獄について自らの所感を話しました。
井伊直弼は確かに安政の大獄によって在野志士を弾圧しましたが、当時の政治状況から見ると、これは止む得ざる行為だと考えています。その頃、在野志士たちは、天皇を中心とした国づくりの実現を目指しました、その原因で国内の治安が乱れ、幕府の根幹から揺るがしました。大老の座につく井伊直弼は先祖代々、幕府の御恩恵を受け、幕府側は瀬戸際になる時に、死をもって、力を尽くすのは彼の責任ではないかと思いました。もし幕府側は、志士志士たちの行動と言論を放任すれば、日本全国が乱れ、内戦にもつながりかねません。万が一内戦に発展しすれば一番喜ぶのは、西洋列強を始めとする諸外国ではないか、彼らはその内戦に乗じて、対日有害活動を展開する恐れがあります。
実は中国のアロー戦争の例でこのことを十分証明できます。中国でアヘン戦争が勃発した数年後、太平天国の乱が発生しました。清王朝はその反乱を鎮圧するために国力を傾けました。しかし、その時に英仏連軍は在華利益をさらに拡大するため、清王朝に攻め入りました。結果的には、清王朝は内憂外患の状況で、戦争に敗れ、政治不安に陥り、国家運営は大幅に行き詰まりました。この例を顧みると、井伊直弼が行った一連の粛清は国を安定させるための思い出はないかと認識しました。
今回の発表を通じて、先輩と同級生のみんなさんから貴重なアドバイスをいただき、ありがとうございました。今回の発表の史料は少なくて、説得力は足りなかったと思っていました。今後、たくさんの本と論文を読んで、今回の不足を補いたいと考えています。
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